日誌

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 31/第参拾壱回 WHITEOUT 
■ どこかへ歩き、歩いて帰る
 いったい、織田裕二の紛するダム作業員・富樫は何をやったのか? 確かに『ダイ ・ハード』のブルース・ウィリスばりに、相手の意表をついて単独の反撃にも出ただろう。『沈黙の戦艦』や『沈黙の要塞』のスティーヴン・セガールばりに、知識と経験、そして地の利を最大限に生かした行動をとりもしただろう。そうした要素を十分 に考慮したとしても、この映画は、予告篇で予想させる『ダイ・ハード』的な世界へとは近づいていかない。何が違うのか?  織田裕二が、銃を撃とうがスノーモービルを走らせようが、そこで展開される事態 は、むしろ『八甲田山』に近いからだ。同僚の石黒賢とともに、遭難者の救助に向かう冒頭シーンで、それは既に明確な形で提示されている。どこかへ歩いていき、そのどこかから歩いて戻る。それがこの映画の決定的な要素であり、しかもそれが雪の中という設定であることは、ほとんど『八甲田山』の世界である。織田裕二にとって本当の敵は、テロリストたちなどではなく、雪と寒さであることは、ここで指摘するまでもなく、映画で再三再四強調されていたはずだ。

 雪の中をどこかへ向かうという点でなら、近年では『THE WHITE』が思い浮かぶが 、決定的に違うのは、自転車を使っていることである。あくまで歩くことに徹している点で、むしろ、『WHITEOUT』の精神的な原点は、『日露戦争勝利の秘史敵中横断 三百里』あたりにあるのかも知れない。
 『WHITEOUT』で排水路から放水された水に流されて脱出した織田裕二が、雪の中を 「歩いて」ダムに帰ってきたことを知らされたとき、胸をいっぱいにさせられるのは 、警察署長の中村賀津雄だけではない。我々も同じように、深い感動をおぼえている。それは、織田裕二が歩くことを完遂してみせたからだ。

『八甲田山』で唯一感動的なのは、高倉健隊が、村の少女・秋吉久美子の先導によって行軍を成功させるシーンに他ならない。それは、彼らが、ただひたすら歩いているだけだからだ。北大路欽也隊を描く部分は、あくまでパニック映画であり、それを見せ場と勘違いしてしまったがゆえに、『八甲田山』は失敗を余儀なくされたといってよい。歩くことが、映画にとっていかに重要な要素であるかを無視してしまった結果であった。
 『WHITEOUT』に関しても、ダムに帰還した後のテロリスト退治は、付け足しみたいに思えてくる。スノーモービルを運転しても、そこでカーチェイス的なアクションが展開されるわけではない。それどころか、織田裕二はスノーモービルを乗り捨て、銃で爆破してしまうのだ。もちろん、これは雪崩を起こすことによって、敵のヘリコプターを墜落させるという目的あっての行為なのだが、それはあくまで説話的な領域でいったい、織田裕二の紛するダム作業員・富樫は何をやったのか?

 確かに『ダイ ・ハード』のブルース・ウィリスばりに、相手の意表をついて単独の反撃にも出ただろう。『沈黙の戦艦』や『沈黙の要塞』のスティーヴン・セガールばりに、知識と経験、そして地の利を最大限に生かした行動をとりもしただろう。そうした要素を十分に考慮したとしても、この映画は、予告篇で予想させる『ダイ・ハード』的な世界へとは近づいていかない。何が違うのか?
 織田裕二が、銃を撃とうがスノーモービルを走らせようが、そこで展開される事態は、むしろ『八甲田山』に近いからだ。同僚の石黒賢とともに、遭難者の救助に向かう冒頭シーンで、それは既に明確な形で提示されている。どこかへ歩いていき、そのどこかから歩いて戻る。それがこの映画の決定的な要素であり、しかもそれが雪の中という設定であることは、ほとんど『八甲田山』の世界である。織田裕二にとって本当の敵は、テロリストたちなどではなく、雪と寒さであることは、ここで指摘するまでもなく、映画で再三再四強調されていたはずだ。

 雪の中をどこかへ向かうという点でなら、近年では『THE WHITE』が思い浮かぶが、決定的に違うのは、自転車を使っていることである。あくまで歩くことに徹している点で、むしろ、『WHITEOUT』の精神的な原点は、『日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里』あたりにあるのかも知れない。
 『WHITEOUT』で排水路から放水された水に流されて脱出した織田裕二が、雪の中を「歩いて」ダムに帰ってきたことを知らされたとき、胸をいっぱいにさせられるのは、警察署長の中村賀津雄だけではない。我々も同じように、深い感動をおぼえている。それは、織田裕二が歩くことを完遂してみせたからだ。

 『八甲田山』で唯一感動的なのは、高倉健隊が、村の少女・秋吉久美子の先導の意味づけに他ならず、映画が本当に欲しているものは、機械を否定し、あくまで自分の体で雪の中を歩み続けることであり、富樫はスノーモービルを破壊することによって、それを高らかに宣言したのである。
 ラスト近くで、白い雪原の彼方から赤い防寒着が見えてくる色彩設計が、あれほどまでに感動を呼ぶのは、やはりここで織田裕二が歩いてきたからに他なるまい。歩くというアクションは、銃を撃ちまくったり、乗り物で追っかけっこをしたりといったアクションを、しばし超えるものなのである。


■ 成瀬巳喜男の奇跡

 映画における歩行といえば、「ジョン・ウェイン・ウォーク」や「モンロー・ウォーク」などのような、俳優の特徴ある歩き方が思い出されることだろう。それはそれで映画における歩行の魅力であることに違いはない。
 しかし、ただひたすら歩くことで、映画が何か特別なものへと変容してしまう瞬間がある。それを可能にしたのが、他でもない成瀬巳喜男だ。成瀬の映画において、二人の人物が並んで歩き始めるとき、そこに映画の最も幸福な姿が惜しげもなくさらし出される。
 これができるのは、本当に成瀬くらいのもので、小津安二郎は『麥秋』で、原節子と二本柳寛を並んで歩かせたが、それですら、成瀬が数々の傑作群で見せ続けてきた最も幸福な映画の姿に及ぶことはない。
 小津の崇拝者であるヴィム・ヴェンダースは、『さすらい』のラストで、列車と自動車を並走させることによって、小津の『和製喧嘩友達』へと近づくことに成功した。ヴェンダースの野心は、それだけにはとどまらず、成瀬の歩行にも挑んでいる。

 しかし、その試みは、『都会のアリス』でリュディガー・フォーグラーとイエラ・ロットレンダーを歩かせて、それをカメラの横移動で追い続けても、『まわり道』でナスターシャ・キンスキーらの一行が曲がりくねった道を歩く姿を延々と長回しで撮り続けても、果てには『パリ、テキサス』でハリー・ディーン・スタントンを歩かせても、結局、成瀬の域には遠く及ばず、その『パリ、テキサス』では、とうとうハリー・ディーン・スタントンを歩かせることをあきらめ、自分の最も得意とする自動車を運転させることで片づけてしまった。
 歩くことの限りない魅力に身を委ねてみたいと願う。しかし、映画がそれをたやすく容認してくれるわけではない。それがヴィム・ヴェンダースのような才能あふれる 人間であってもだ。『WHITEOUT』における歩行について言及しても、やはり結末は成瀬巳喜男に行き着いてしまう。それが映画の残酷さというものなのだろうか。

 

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 32/第参拾弐回 スペース・カウボーイ 
■ 持続の拒絶
 クリント・イーストウッドが作り上げてきた数多くの傑作群から、さらに突き進んだ高みへと達してしまった『許されざる者』は、何事をも「許さない映画」と評された。クリント・イーストウッドが、確かに「許さない」映画作家であることは、この『スペース・カウボーイ』でも随所に見て取ることができよう。
 冒頭、いかにも宇宙映画風のタイトルが出たと思ったら、ファースト・ショットは、白黒画面にぽっかり浮かんだ空のショットとなり、カメラが下がって空の下に地平線が見えてくる。空と雲と地平線――これらが画面に映っていれば、それだけで映画は成立する。クリント・イーストウッドは、映画の王道をここでも邁進しているではないか、という感慨に耽り、早くも涙が流れてきもしよう。
 しかし、それは「許されざる」ことだった。わずか数秒の後、飛行機が画面奥から轟音と共に飛んできて、映画への安住をたやすく断ち切ってしまう。
 クリント・イーストウッド演じるところのフランクが自宅で奥さんと一緒に日本製品らしきものを修理するシーンでは、室内の照明が落とされており、人物の顔にも当然、照明は当てれず、表情を観察することすらままならない。さすがはクリント・イーストウッド。逆行のヒーローを描き続けてきただけある……と、いつもながらの作風に感心していると、それも束の間、突然シャッターが上がって、NASAからの二人組が登場し、日光によってたちどころに暗さの魅力が消滅するという寸法だ。
 まだまだある。トミー・リー・ジョーンズは、ジョン・フォードが「再三再四、繰り返した」(ハリー・ケリーJr「ジョン・フォードの旗の下に」より)あのポーズに近い格好で登場し、我々を嬉しい思いにさせてくれるが、それもほんの一瞬だけで、ジョン・フォードの『馬上の二人』よろしく、映画の最初と最後にあのポーズを反復してくれるようなサービスぶりなどかけらもない。
 トミー・リー・ジョーンズ操縦による赤い飛行機が地上近くを滑走し、それと平行してクリント・イーストウッドが自動車を走らせるショットは、この「映画日誌」で、それこそ再三再四述べてきた小津安二郎の『和製喧嘩友達』を、現代的な形で反復したものであるが、これだって2秒あったかどうか。
 さまざまな至福のイメージを提示しながら、決してそれに安住することを許さない。甘味な体験を維持することを断固として拒否し、断ち切ってしまう。『スペース・カウボーイ』は、こうした持続と切断の容赦ないせめぎあいを繰り返し、まるでアルフレッド・ヒッチコックコック映画の主人公が追い込まれるような足場のない世界へと見る者をいざなう映画になりうるものと思われた。少なくとも、宇宙へ行く前は……。


■ 距離の読解
 『スペース・カウボーイ』は、ある意味で『ファイヤー・フォックス』を思わせる映画だ。特撮の多用、前半と後半でがらりと内容が変わる構成が共通している。ただ、後者の場合、特撮は決してクリント・イーストウッドの世界を侵害することなく画面を助け、二部構成ともいえるその展開は、2本の映画を楽しめるかのようであり、かつ分離してしまうことなく円滑に結びついていた。
 『スペース・カウボーイ』の前半と後半を、地球篇と宇宙篇と称するなら、地球篇では、まぎれもないクリント・イーストウッドの世界が展開していた。
 ところが、宇宙篇に地球篇のような、ある種の戦略が見られただろうか? 宇宙船とNASAのやりとり、暗闇など付け入る隙もない船内など、クリント・イーストウッドの世界は介入を「許されざる」ものとして置き去りにされていはしなかったか?
 チームの一人が命を投げ出すことによって地球を救う、これも歴史的に反復されてきた自己犠牲をクライマックスとした脚本の貧しさに対し、ここで文句をつけるつもりはない。そんなことより、月までの距離がどれだけあったかを、どう表現していたかの方がずっと大きな問題だからだ。
 英語のセリフを聞いてももちろんわからないが、字幕を呼んでも、月との距離がどの程度で、どれだけ距離が足りず、どのような問題がそこにあるのかが、一所懸命字幕を読んで理解しようと努めても、十分には把握できない。近年であれば、例えば『目撃』で、人間と人間の距離が伸縮するさまを、スリリングに描いたクリント・イーストウッドが、なぜ? そう思わざるをえない距離表現ではないか。
 これは、宇宙だから、とお茶を濁すことのできない問題だ。もちろん大気圏に突入してからだって、船が地上とどのような距離関係にあり、どう危険なのかが伝わってこないだろう。
 宇宙でのドラマを描くにあたり、特撮は不可欠だ。特撮部門と実写部門など、制作上、いろいろな経緯があったには違いない。しかし、宇宙篇で、クリント・イーストウッドは監督をやめてしまったのではないか。そんな気もしてしまう。これをどう好意的に見ても、地球篇の構造を宇宙篇で粉砕したまま終わらせてしまう、という破壊的な映画をクリント・イーストウッドが目指したとは思えない。
 ラストシーンで、フランク夫妻が二人並んで月を見上げるとき、「あ、やっぱりクリント・イーストウッドの映画じゃないか」と地球篇の印象が復活するだけに、あの宇宙篇は何だったのかといういぶかしさが首をもたげてくる。『スペース・カウボーイ』を、クリント・イーストウッド監督作と見なすことは危険な好意であり、映画はそれを許してくれはしないだろう。

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