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Vol.1〜Vol.25 特別編&年度別ベストテン
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 45/第四拾五回 裏切り者-The Yards- http://www.asmik-ace.com/Yards/ 
■影が輝く
 真っ黒の画面から、星がこちらに向かって飛んでくる。犯罪映画にしては、ずいぶんもったいぶったオープニングだ、と思いながら見ていると、この暗闇はトンネルの中であり、飛んでくる星は、トンネル内に点在する小さな電灯だったことがわかる。
 列車の最後尾にカメラを置き、トンネルから列車が出た瞬間をとらえる。これまで、トンネルを出るショットとは、列車の先頭にカメラを置くか、あるいは、列車の見えるどこかにカメラを置いて、トンネルから出てくる列車をとらえる方法が選択されてきたものだっただけに、今回の手法は決定的に新しい。これまでに見たこともない方法だったがゆえに、トンネル内が宇宙空間に、電灯が星に見えてしまったのだ。
 映画の新たな貌を切り取ってしまった映画だけに、これは何かある。ほどなくして、期待を超えた世界が展開し始めた。自然光だけで撮影された各ショットが、非常に暗いのである。人の表情がわからない。主演のマーク・ウォールバーグですら、顔の半分が陰となっている。

 自然光とはいえ、この暗さは通常なら絶対に失敗とされるべきものだ。自然光撮影が大成功だった『ロシアン・ブラザー』ですら、これほど暗い画面ではない。しかし、『裏切り者』が輝きを放っているのは、この暗さゆえである。『A.I.』『パールハーバー』『千と千尋の神隠し』『PLANET OF APES 猿の惑星』『ジュラシック・パーク」』といった夏の壊滅的な大作群が虚しく去ったかと思ったら、秋は秋で『エボルーション』『トゥームレイダー』『ソードフィッシュ』『ヤング・ブラッド』といったこれまた空虚な代物が連続し、もしかしたら映画は本当に滅びてしまうのかもしれない、と思っていた矢先に、この『裏切り者』が登場し、平坦な明るさを徹底して排除したがゆえの輝きを獲得したのである。

■フェイ・ダナウェイの勝利
 マーク・ウォールバーグは、夏の大作『PLANET OF APES 猿の惑星』に主演し、特殊メイクの猿にも劣る、味気のない表情をさらしていたが、『裏切り者』で完全に脱皮することができた。(ま、『裏切り者』の方が1年前の映画なのだが)特に、逆光で顔が見えないショットでは、クリント・イーストウッドに続く、新たな逆光のヒーロー誕生という確かな手応えを感じることができる。
 しかし、この映画で、一頭抜きんでる輝きを見せつけたのは、フェイ・ダナウェイである。彼女は、マーク・ウォールバーグの出所祝いパーティのシーンから出ているのだが、やはり暗くて顔がわからない。フェイ・ダナウェイであることがわかるのは、映画が途中まで進んでからだ。
 顔すらも判別できないような暗さの中から、フェイ・ダナウェイは、次第にその存在を拡大していく。アップがあるわけでもないのに、深い諦念をきざんだその表情は、画面全体の暗さを促進させながら、この映画とともに輝きを放つ。娘シャリーズ・セロンの死を知らされたとき、その表情は、エレン・バースティン、ジェームズ・カーンといった1970年代から復活した名優たちをも大きく引き離した迫力をもって、忘れられない印象残すのだった。
 フェイ・ダナウェイと共に、見逃せない存在感を示したのが、ホアキン・フェニックスである。組織のボス、親友、そして恋人と、あらゆる方向から二重三重の板ばさみにされて奈落へと転落していくその落ちぶれようが、この上なく魅力的だ。恋人のシャリーズ・セロンを誤って事故死させてしまってから、警察に逮捕されるまでのアップは、彼の流す大粒の涙と共に、この映画の暗さと最も共鳴し合った悲痛さとして、長く記憶されることとなるに違いない。

 

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 46/第四拾六回 キューティ・ブロンド http://www.foxjapan.com/movies/cutieblonde/ 
■映画館を出るときは健さんの気分
 人は、映画の中に、輝くヒーローやヒロインを見てしまったとき、どのような行動をとるのだろうか――彼らの魅力を知人に熱く語りかける、我を忘れたように映画のシーンを思い浮かべる、関連書物などを購入する、批評の執筆にとりかかる…。それはそれは、さまざまな行動があることだろう。
 例えば、高倉健の映画を見た男性客が、上目遣いで口を少しとんがらせ、首をわずかに傾かせて歩きながら映画館を出ていく、といった現象は、高倉健主演の仁侠映画が全盛だった時代から指摘されていたし、ジョン・ウェインの「歩き」は、ファンな
らずとも真似をしたくなる動きであるし、ブルース・リーの映画を見た後は、やはりそれらしき歩き方になってしまう人も多かったにちがいない。
 映画の登場人物が、いかに歩くか? それは、その人物が魅力的であればあるほど、観客の行動に大きな影響を与えずにはいない。映画史において、「モンローウォーク」という言葉が生まれたり、黒澤明が、俳優をテストするときは、ただ歩かせてみれば資質がわかる、といった発言をしているなど、単純に思える歩くという行動が、俳優、そして映画が観客に科学変化を起こさせる触媒のようなものとして機能してきたことがわかるはずだ。

■エル・ウッドウォークは批評なのだ
 女性客が大半を占めていたこの『キューティ・ブロンド』を見終えた帰りに、前を歩いていた女性客の一人が、リース・ウィザ?プーン扮するヒロインのエル・ウッドと同じ歩き方をしていることに気づき、驚かされつつ、とても嬉しくなり、映画の満足感が拡大されてしまった。
 映画の冒頭10分くらいは、「ぶっ殺してやりたい」と思わせる存在だったヒロインが、悪戦苦闘・奮闘の挙げ句、ハーバードロースクールを総代として卒業するシーンでは、リース・ウィザースプーンって、こんなに知的な顔だったのか、と思えるほどの変貌を成し遂げている。
 美貌、知性、そしてキャリア。これらを全部手に入れた彼女は、男性から見ても、抜群にカッコいい。そんなキャラクターが、直接的に観客の行動を変化させ、同じ歩き方をさせてしまうことは、男性客が高倉健やブルース・リーの映画を見た後に、歩き方が変わってしまうのと同次元の現象なのだ。
 それを、映画にかぶれてしまった、みたいにとらえるような態度は、失礼極まりない。行動を模倣することは、映画に対する素直な反応であり、批評なのだ。
 世間でいわれるところの映画評論なるものにありがちなものに、「ストーリーは単純だが…」「…の演技が素晴らしい」などといった下卑た表現たちがある。そんなシ
ロモノなど、目にしたくもない。
 登場人物と同じ歩き方で映画館を出る、という、凡百の下劣な言語を遥かに超えた、映画に対する崇高なる批評行為は、それを目にした人間に新たな感動を与えてしまうくらい、優れた表現として、本人の意識を超えたところで成立しているのである。


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