日誌

Vol.1〜Vol.25 特別編&年度別ベストテン
Vol.26〜Vol.59
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 51/第五十壱回 パイラン 
■黄色い床
 セシリア・チャンが扮するカン・パイランが、やっとの思いで見つけた働き口の洗濯屋。彼女は、そこに住み込みで雇われるわけだが、与えられた部屋の床は、なぜか黄色いマットが一面に敷かれている。
 この床、特にそれが黄色いことが気になって仕方がない。まさか、韓国でこんな床が一般的なわけではあるまいし、パイランの送られた港町に多い、というわけでもなかろう。現に、チェ・ミンシク演じる主人公イ・カンジェの住む古アパートだって、床は合板なのだ。
 理由はどうあれ、この黄色い床は、セシリア・チャンをその上に座らせ、横たわらせる、という機能を遥かに超越し、人物を圧倒する存在感で画面を席巻している。
 視界に入っているだけで気になってしまう。それに近い性質の存在は、怪奇映画における幽霊といったところになろうか。
平面と人間
 現在と過去が交錯しながら展開する物語など、どこ吹く風、とばかりに自己主張をし続ける、この黄色い床。パイランの死を知らされたカンジェが、港町を訪ねるシーンで、床は突然、輝きを放ちながらその絶大なる存在意義を明確にし始める。
 カンジェは、氷の張った湖に降りていき、氷の上で戯れ始める。黄色い床から氷へ――。つまり、平面だったのだ。
 床、という建物の一部ではなく、純粋な平面。この黄色い床を、そうとらえられれば、映画は過去と現在を語る時間軸以上の拡大を見せ始めることになる。
 異国の地で一人の生活をパイランは余儀なくされ、黄色い床の上で生活を営む。カンジェは、氷の上でわけもなく戯れる。平面と人間。建物の一部や土地などが、半ば抽象的なものとしてとらえられる世界へと映画は進んでいく。

■抽象から純粋へ
 この抽象性は、原色を多用し、映画の平面性を強調したジャン=リュック・ゴダールの方法に極めて近い。いや、それを十分に意識した上での作りであろう。平面を意識させるための契機となる色が、あの黄色だったのだから。
 ゴダールの方法を導入しながらも、色は、黄色以後、さほど重要な役割を果たすことはない。白いシャツの上に落ちる、パイランの吐血は、むしろ古典的な使用であり、白と赤、という色は抽象性を意識したものではない。
 人間と平面の関わりは、写真へと進む。パイランは、カンジェの写真を額に入れて飾る。身分証明用の小さな写真が、その数倍はある大きさの額に押し込められると、写真に写った表情よりも、額の平面性が強調される。
 決定的なのは、葬儀の祭壇に飾られるパイランの遺影だ。平面への意識が、より高まっていたところに、この遺影。パイランは、平面との関わりを持つだけでなく、みずからが写真という平面と化してしまったのだ。平面と人間の関係性を描く側面から見れば、映画はここで完結したといってよかろう。
スクリーンと私たち
 原作と、その映画化された作品(映画版『ラブ・レター』は1998年ベストテン第2位)の題名通り、この映画は手紙が決定的な感動誘因機能を果たしているのだが、正に手紙は平面の世界。そこへ収束させたかったのかどうかはわからないが、もはやこの時点において、手紙は平面という抽象性を持ってこそ、その存在が明確になっている。
 パイランが手紙を書き、カンジェが手紙を読み、人間が平面と関わっていくことを見ているだけで、感動は尽きることがない。
 パイランが洗濯屋に雇われた翌日、外に干されていた白いシーツも、実はそれを予告していたのだ。それを見ただけでは、平面という要素に気づかないほど巧妙に張られた伏線だったのである。
 もはや、気づかれていることと思うが、平面と人間の関わり――それは、この映画を見ている行為そのものである。映画=スクリーン。私たちはスクリーンという平面を見つめていることにより、平面との関わりを持たざるを得ない。
 見ている人間に、それを意識させることなく、スクリーンの中に、平面と人間の関係を織り込んでいく。これほど高度な芸当を実現するとは。ゴダールという一つの到達点を通過した現代においてこそ登場するにふさわしい、緊密な構造を可能にした映画が、ついに誕生した。

 

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 52/第五拾弐回 源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶
■空間の喪失
 冒頭のワンショットが、非常に長い。中村錦之助の後ろ姿をカメラが追っていくと、そこに現れる刺客が数人。彼らを斬り倒す錦之助を、カメラはなおも追う。錦之助がこちらを向くと、顔に当たられていた照明は外され、逆光のような画面で錦之助が二刀を構えて立ち続ける。タイトルが流れること数分。錦之助はそのままの姿だ。
 カメラが移動しながら、何かを追う、あるいは並んでいる複数の物体や人物をとらえる。最後には画面の中心をなすべき物体、あるいは人物をとらえて、移動を停止する。この手法が続出する。
 タイトルの後は、宿場。クレーンを使ってカメラを移動しながら、三味線を弾く女と、相棒の男を追っていき、彼らが目指すお宿に辿り着くまでは、カメラの角度や進行速度など、いろいろと異なる点はあれ、明らかに『丹下左膳 第1篇』の冒頭ショットを反復したものだ。
 移動ショットから、移動ショットへ切り換わったりするつなぎも多く、ロバート・アルトマンか、とも言いたくなるが、それは映画史を逆行する言い方である。アルトマンの遥かな先駆が伊藤大輔なのだ。それを考えれば、オーソン・ウェルズ『黒い罠』の冒頭ショットも、アルトマン『ザ・プレイヤー』の冒頭ショットも、驚異的、と表現するよりも、伊藤大輔的、と表現した方が適切なのかもしれない。
 カメラの移動は、横への動きが中心である。そうした世界に、突如、上下の移動が介入する。錦之助の演じる初音の鼓が、佐渡屋を訪ね、そこの悪おかみに、巻物を持参した、と持ちかける。それでは二階へ、ということになり、恐らくセットの二階に置いてあったカメラが、それまで上から錦之助をとらえており、錦之助が階段を上がることも意識させぬ滑らかさで、二階へと上げてしまうのだ。
 カメラはただ角度を変えただけだろう。それだけで、上と下の空間をつなぎ、何も気づかないうちに、移動を完了させてしまう。近年、こうした空間の喪失を得意としているのが、ジャッキー・チェンであるが、スタントや道具を用いずに、ちょっとしたセット作りの工夫とカメラの動きだけでそれを可能にしているところに、ジャッキー・チェンとはちがった質の偉大さが感じられる。
 上下の物語は、二階に上がった段階では、まだ始まったばかりだ。悪おかみは、仏壇にしまった巻物の芯を出そうとして、踏み台を持ち出す。そこまでは、階段をまったく意識させなかったのだが、この踏み台は小さいながらも、二段ある階段状となっている。
 一階と二階という離れた距離ではなく、わずか数十センチの間を、この踏み台が仲介しようとする。しかし、なぜか台は不安定だ。それを錦之助に支えさせると、足下の床が開き、錦之助を地下の隠し部屋へと墜落させてしまうのだ。
 一階から二階への移動に始まり、踏み台、そして落下という、上下の物語が、ここで完結する。主人公が捕らわれの身となった状況ながらも、爽快感をおぼえてしまうのは、上と下の空間をつなぐ手だてが、あまりに鮮やかであるからなのだ。

■ブルース・リーへ
 カメラの執拗な移動が続きながらも、上下の物語をさりげなく挟み込み、それを鮮烈に成功させる。これだけで、十分に満足のいく映画たりえているが、そこに余談ながら、後年、世界を席巻することになるブルース・リーへの萌芽をも感じられてならない。
 まずは、戸上城太郎の「鉄の爪」。『燃えよドラゴン』でシー・キェン扮するハンの「鉄の爪」は固定式だが、こちらは可動式。武器としての効用はないが、刀を受けるなど、防具としては活躍している。しかも、戸上の主武器は、槍である。ハンが私設博物館で、展示物の槍を使って襲いかかるシーンは、偶然とはいえ、戸上の姿に通じるものがある。
 主人公の初音の鼓、そして源氏九郎は、背中に入れ墨がある。それを見せるためなのだろう、まずは、右肩をはだける。着物は白。『ドラゴン危機一発』ではないか。
終盤には両肩をはだけ、上半身裸で闘う。『ドラゴン危機一発』の展開とまったく同じだ。
 ブルース・リーが上半身裸になるという案は、高倉健から来ているのだろうと思っていたが、その前に、中村錦之助がやっていたとは。この順番が重要だ。錦之助の白衣装、そして片方ずつ肩をはだける展開が、『ドラゴン危機一発』。
 それに続く『ドラゴン怒りの鉄拳』では、高倉健の着物に近い色のカンフー着を着たブルース・リーが、上半身裸になって戦う。東映映画の歴史をふまえた流れのようではないか。
 ブルース・リーはこの時代の東映映画を見ていたはずだが、果たしてこれほどまでの一致を、主演者の立場で実現できたのか? それとも、製作者のレイモンド・チョウ、あるいは監督のロー・ウェイが、東映映画の熱烈な支持者であったりしたのか?
 ブルース・リーと東映映画は、明らかに何かで結ばれているはずだが、解明には至らない。謎は、まだまだ深まるばかりだ。

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