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 54/第五拾四回 バレットモンク
■映写技師と映画館
 ショーン・ウィリアム・スコット扮するカーが、中国武術を学んだ「道場」ゴールデンパレス。実は、そこはカンフー映画を上映する場末の映画館だった。
 映画館の桟敷席に相当する空間に住み込んで、映写技師をしている、というのが、彼の役どころだ。フィルムが切れ、観客の罵声が響く中、彼は「ぬるいコーラと湿ったポップコーンなら、あるぜ…」などと毒づきながら、映写室へと向かう。
 ずいぶんといい加減な映写技師である。だが、そんな映写技師を主人公にした映画が、瞬時に甦ってこよう。映画の新たなる息吹を高らかに告げた、ヴィム・ヴェンダースの『さすらい』がそれだ。
 大型トレーラーを運転しながら、ドイツ各地の映画館を巡回する技師が主人公ということだけで、限りない興奮をかき立てられるこの『さすらい』で、主人公に扮したリュディガー・フォーグラーは、映画とその上映作業に対して、非常に真摯な態度を貫きながらも、とある映画館では、フィルムの後半を飛ばして上映する、などという不届きな行為に及ぶこともある。
 フィルムが切れ、観客の罵声を浴びても動じないショーン・ウィリアム・スコットの態度に、『さすらい』のリュディガー・フォーグラーに通じるものを感じ、『バレットモンク』の作り手が、映画史に敏感であることを感じずにはいられない。
 しかも、映画館に住む、ということが決定的だ。ここで浮上するのが、やはり主人公を映画館に住まわせた、ホウ・シャオシェンの『向こうの川岸にには草が青々』(『川の流れに草は青々』という題名で一般公開された映画だが、初めて見たときの日本題名は、『向こうの川岸にには草が青々』であり、この印象が強すぎるため、こちらを使用している)である。
 映写技師という職業を持つ登場人物、映画館に住むという状況。20世紀の終盤において、映画の頂点を極めたヴィム・ヴェンダース、ホウ・シャオシェンという二人の映画作家が、それぞれ作り出した人物と状況が、こうして踏襲されていることに、この『バレットモンク』という映画が、いかに「育ちの良い」質を持っているかが歴然と察せられるのである。

■徹底した模倣を
 ショーン・ウィリアム・スコットは、何と映画を見ながら、その動きを真似て中国武術を学んでいる。この姿勢が素晴らしい。
 真似に徹しているからこそ、右足を前にし、左手を顔の高さに上げて手を開く、ブルース・リーのポーズ、さらには『燃えよドラゴン』で、ハンの部屋に呼ばれ、衛兵を倒したときのジム・ケリーのポーズにも通じていく姿に、何の抵抗もなく、称賛を与えたくさせられるのだ。
 少年時代、ブルース・リーの映画に接して、せめて動きだけでも、あんなふうにできるようになりたい、と痛切に思った。そのためには、どうすればよいのか?
 道場に入門する。しかし、近くに道場はない。通信教育を利用する。しかし、それでは限界がある。当時、ビデオは一般化されていなかったから、画面を見ながら動きを真似ることもできない。
 それでも、方法はあったのだ。映画館で働いて、ブルース・リーの動きに合わせて、それを真似て、ひたすら反復練習すればいい。そこまでの思い切りがあれば、ブルース・リーには遠く及ばなくても、ある程度の動きは身についたことだろう。
 通常では、そんなこと無理だ、と片づけられてしまうことを、ショーン・ウィリアム・スコットはこの映画の中で実践している。この方法があったのだ。それを今さらながら思い知らされ、人生において、珍しく後悔の念をおぼえさせられた。
 周防正行は、小津安二郎の映画を完全リメイクが可能だと言った。映画を作る次元とは異なるが、映画を繰り返し見ながら、動きを徹底して模倣することによって、ブルース・リーとまったく同じ動きができるようになったなら、それは達人の域に至るに等しいのである。

■逸材ショーン・ウィリアム・スコットの成長
 ショーン・ウィリアム・スコットは、究極のお調子者、という印象の強い俳優だった。
 最初に見た『エボリューション』で、お調子者ぶりは全開していたが、それは既に『アメリカンパイ』で確立されていたことが、日本公開題名『アメリカンサマーストーリー』で知ることができた。
 本来なら、何も起こる必然性がないところへ、無理矢理トラブルを発生させてしまう、狂気に近いこのキャラクターは、ある種の爽快感があった。
 ザ・ロックとの共演作『Rundown』では、お調子者の要素は残してはいるものの、秘境で遺跡を発掘する我慢と粘りも持ち合わせており、ザ・ロックと対等に渡り合った。
 『Rundown』から、ショーン・ウィリアム・スコットの変化、というか成長が感じられてきた。そこへ、この『バレットモンク』である。正に修行と成長の過程が描かれる映画であり、これまでのお調子者路線を卒業するかのような感慨まで生じる。
 地下鉄でスリを行うシーンあたりでは、ショーン・ウィリアム・スコットも、そろそろお調子者を卒業するのだろうが、あと二、三作はお調子者を続けてほしいな、とは思っていたのだが、その後の展開、さらには経典が体に付着してしまったからには、もはや無理な注文となってしまったようだ。
 一本の映画において、一人の人間が成長していく過程を見るのは、非常に心地が良い。それだけでなく、複数の映画を通じて、成長していく場合もある。例えば、『宮本武蔵』五部作で、中村錦之助は、武蔵の成長と共に役者として成長していった、といわれている。まあ、中村錦之助は、第一部の撮影に入った時点で、役者として既に成長を遂げていたわけだが。
 『バレットモンク』において、チベット僧の教えを受け(ちなみに、ショーン・ウィリアム・スコットを指導する際のチョウ・ユンファは、口調が『燃えよドラゴン』で高僧と話すシーンのブルース・リーみたいだ)、経典、いや世界の守護者となる、正に急成長を遂げたショーン・ウィリアム・スコット。この類い稀なる逸材が、今後、いかなる成長を見せてくれるのか、楽しみでならない。

 

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 55/第五拾五回 悪い男
■自覚的なガラス
 ソ・ウォン演じるソナが、チョ・ジェヒョン演じるハンギの陰謀により無理矢理働 かされることになった置屋。置屋がずらりと並ぶ通りをはさんだ建物の二階に、ハン ギの事務所がある。
 通りや置屋を見渡せる、この事務所。位置関係が非常に良い。それは、監視に適し ている、といった機能的な理由によるものではない。説話としては、やりきれないような痛さを持つ内容ながら、置屋、通り、事務所、そして時折激しくそれらに叩きつけられる雨の存在が、理由はともかく、居心地の良い時間と空間を、見る者に与えてくれ続ける――。
 前半の印象は、そんなところだった。しかし、位置関係の設定が優れているという点以上に、この映画は、ガラスに対して徹底的に自覚的であった。それに気づくのが、切ったガラスでハンギが刺されるシーンあたりだったとは、我ながら不覚としかいいようがない。
 思えば、事務所に戻ったハンギが、拳で二回にわたって窓ガラスをぶち破るシーンで、それに気づくべきだった。これは、徹底したガラスの映画ではないか。
 全面がガラスになった置屋の入口。これがまず決定的だ。撮影はセットで行われたらしいが、これほどガラスに覆われた画面は、映画史上稀であろう。類似した例としては、『上海から来た女』や『燃えよドラゴン』の鏡が挙げられる。
 環境としてのガラスは、マジックミラーという姿に変えて、貫通の機能を開始する。
マジックミラーは、片方からしか見ることができない点にこそ、その存在意義があるにもかかわらず、マジックミラーを隔てた男女の両方が画面に映し出すことで、この映画はより悲痛さを際立てせていく。
 マジックミラー越しの意志疎通といえば、『パリ、テキサス』で最も痛切なシーンとして描かれたことが記憶されていようが、この『悪い男』では、より物質的な表現として感情の昂ぶりを誘う。
 『パリ、テキサス』では触れられることのないマジックミラーに、『悪い男』では、限界まで近づき、ついには破壊されることになる。ガラスを頻出させると同時に、ガラスに対して、これほど直接的な暴力を与え続ける映画というのも、極めて珍しい。
 ガラスは、壊されることによって、貫通を成立させるだけではない。刑務所の面会室では、ガラスに開けられた穴に、ハンギの弟分が煙草を差し込んで、ハンギがそれを吸う。
 環境を形作る極めて大きな要素であるガラスが、ときには凶器となり、ときには人と人を隔て、ときには人と人をつなぐ役割を果たす。刑務所の面会室は、凶器としてのガラスと対極的な側面を見せつけたことで、ガラスの存在を、より重いものとして伝えているのだ。


■平面へ
 2003年の第一位『パイラン』と同じ主題になってしまうのだが、ガラスはやはり、平面でもあった。ガラスの映画が、平面性へと収縮していく。
 海辺で、しゃがみながら(余談ながら、並んでしゃがむ男女を映画において最も幸福に表現した映画作家が小津安二郎であり、それに対するオマージュして、『パリ、テキサス』におけるハリー・ディーン・スタントンとオーロール・クレマンのやりとりがある。もしかして、『悪い男』の監督キム・キドクは、小津やヴィム・ヴェンダースも研究しているのか)、破られた写真をソナが砂から掘り出すシーンから、この映画は平面への移行を開始する。
 そして、写真の断片から欠けていた顔の部分が補われるとき、ハンギとソナは、平面となってしまう。まるで『パイラン』で、病死したパイランが遺影となるシーンのようだ。
 登場人物が平面となることを意識する瞬間、結局のところ、私たちはそれまでずっと、スクリーンという平面を見続けてきたことに気づく。『パイラン』は、映画の平面性をある程度隠蔽しながら、平面の表現を目指した。しかし、『悪い男』は、映画を見る行為が、スクリーンという平面と関わることなのだ、という現実を直接的に突き付けてくる。


■開かれたラスト
 ハンギとソナが写真、すなわち平面となることによって、映画は一つの完結を見たといってよい。ここで「一つの」という表現を選択した理由は、他にも完結があるからだ。
 いくつの完結があるのかは、特定できそうにない。ハンギはナイフで刺されて死んだのではないか? ソナは、海に身を沈めて死を選んだのではないか?どこからが現実なのかが、曖昧にされていく。
 ラストシーンは、トラックに乗って商売を続けるハンギとソナを描く。しかし、それが、映画に描かれたすべての出来事がすんだ後のことなのか? それが現実で、映 画で描かれたすべての出来事が幻想だったのか? いずれにも特定することはできな
い。時間的に、映画のどこに位置するのか? ますます明快さが薄れていく。
 私は、常に「映画はフィクションであり、同時にドキュメンタリーでもある」と主張している。『悪い男』も、実話を材料としながらも、架空の物語であるのだから、 その点ではフィクションである。同時に、出演している人間たちの現在を記録したド キュメンタリーでもある。
 虚構や現実といった境界線を排除した見方をすれば、ハンギとソナの死、その後、といったすべての現象をそのまま受け入れればよいことになり、どこまでが事実で何 が想像なのか、といった区別も意識する必要はなくなる。
 それを私は「開かれたラスト」と呼ぶ。作り手は、見る者に指示しない。見る者に 提示するだけだ。選択するのは、見る者たちであり、何かを切り取って選択しても、 すべてを受け入れてもいい。それは「自由」というものだ。しかし、自由を前にして、 人は往々にして戸惑いと不安をおぼえずにいられないことも事実である。優れた映画 とは、必ずしも人に安らかな感銘を与えるものではない。

 

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