映画日誌 ベストテン 日誌

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 2007年 ベストテン 
第1位 赤い鞄 モォトゥオ探検隊
(中国/ハスチョロー/スン・ミン)
第2位 ひめゆり
(日本/柴田昌平)
第3位 該当なし
 
第4位 該当なし  
第5位 中国の植物学者の娘たち
(フランス=カナダ/ダイ・シージェ/リー・シャオラン)
  マッシュルーム・クラブ
(アメリカ/スティーヴン・オカザキ)
  硫黄島からの手紙 (アメリカ/クリント・イーストウッド/渡辺謙)
第6位 ブレイブワン
(アメリカ/ニール・ジョーダン/ジョディ・フォスター)
第7位 サン・ジャックへの道

(フランス/コリーヌ・セロー/ミュリエル・ロバン)
第8位 胡同愛歌
(中国/アン・ザンジュン/ファン・ウェイ)
第9位 パフューム ある人殺しの物語
(ドイツ=フランス=スペイン/トム・ティクヴァ/ベン・ウィショー)
第10位 ダーウィンの悪夢 (フランス=オーストラリア=ベルギー/フーベルト・ザウパー)
 
(凡例 順位 題名 製作国 監督 主演)※記録映画は主演者の表記なし



  2007年は、映画に接する機会が前年よりさらに減少し、第一位は早い時点で決定していたものの、十本は埋まらないだろう、という予想があった。
 ところが、いざ選出作業を始めてみると、十本がすんなり決まり、2007年もまた、例年と同様、非常に豊穰なる映画の魅力を存分に味わうことのできた年であったことを確認できた。

  この作品が第一位であれば、二位以下は選出できない、というくらいに他との圧倒的な差をもって、第一位はしごく容易に決定した。
『赤い鞄 モォトゥオ探検隊』は、映画の冒頭が、2006年の第一位である『ようこそ、羊さま』のラストシーンから始まる、といっても過言ではない奇跡的な始まりを告げるところからして予感はあった。しかし、映画の持っている力は、その予感を遥かに超越し、私を圧倒し続けてやまなかった。

  撮影という現場において、出演者たちが、演技という行為を超え、過酷すぎる自然の脅威に身を置くことよって、自然に対し、演技ではなく、一個体の生物として反応し始め、それが人間の生そのものを露呈していく。

  近年では『キプールの記憶』が、戦場において負傷兵を救出する「演技」が、あまりに過酷な状況ゆえ、狂気の修羅場へと化していく決定的な現場を、生々しいと表現するにはあまりに残酷な様相でフィルムへ記録していた。『炎628』においても、沼地を泳いで渡るシーンに、そうした現場が刻印されていた。

  しかし、この二作品において、それらは瞬間的なものにすぎない。これらの瞬間が、延々と持続する厳しさを擁しているのが『赤い鞄 モォトゥオ探検隊』であり、見る、という行為で、映画に記録された状況が体験できるはずはないものの、出演者たちの苦しみに同化させられてしまい、身に突き刺さる苦しみを錯覚させられる点が、この映画の決定的な力である。

  第二位は『ひめゆり』。体験の過酷さ、苦しさにおいては、『赤い鞄 モォトゥオ探検隊』の比ではなく、『プライベート・ライアン』や『硫黄島からの手紙』で描写された戦闘場面が絵空事に思えるような状況が、出演者たちによって語られる。映画の序盤、塹壕の中で微笑む少女たちの写真を見せられ、涙が出るが、泣いてすまされる事態ではない厳しさを、語る行為だけでも十二分に突きつけられる。

  上記の二本に比べると、第三位・第四位として比肩する映画はなく、第五位を三本にして処理した。
『中国の植物学者の娘たち』は、「腕の映画」であることが画期的だ。映画と足の深い関係については、今さら述べるまでもないことだが、腕(手ではない)がこれほどまでに決定的な要素として描かれた映画は、これまでに稀有であっただけに、歴史的な映画となった。

『マッシュルーム・クラブ』は、『ひめゆり』と同様、戦争を語る映画であるが、同監督の『ヒロシマナガサキ』で語られる「被爆者になって、良いことはひとつもない」の言葉通り、すべてのことを負へ向かわせてしまう原爆という巨大破壊兵器の存在を前に、人間同士が争いなどしている場合ではない、という謙虚な気持ちにさせられる厳かさが全編を貫いている。

『硫黄島からの手紙』は、現代における白黒映画を目指し、巨大なる成果をあげた映画だ。『ことの次第』が、現代における白黒映画制作の困難さを真っ向から取り上げた映画であるならば、『硫黄島からの手紙』は、その困難さを商業的に回避し、白黒映画を実現させた。文字という、白と黒の世界が、無限の世界を描写することが可能であると同様に、白黒映画もまた、無限の世界を可能にする。

  第六位の『ブレイブワン』は、不均衡な愛情と自己犠牲という『モナリザ』『クライング・ゲーム』の世界を瞬時に甦らせてくれたことに感謝したい。
 ひたすら歩くことによってしか先に進むことのできない『サン・ジャックへの道』は、歩くことが映画になるという、ひとつの法則を再確認させられる。登場人物が、そして人と人との関係が、歩くことを通じて刻々と変化していく過程が非常に快い。

 第八位は『胡同愛歌』。ロングの長回しという、省略とはおよそ縁のない手法をとりながら、省略を実行してしまう驚きが、ここにある。

  第九位の『パフューム ある人殺しの物語』は、香りという不可視の表現が決定的になるかと思われたが、むしろ奥への構図こそ、この映画の成功要因であり、終盤では、『ラン・ローラ・ラン』から続く赤い髪の過剰さが映画を支えた。

  最後に位置する『ダーウィンの悪夢』は、『ホテル・ルワンダ』で語られたと同じく、「結局は遠い国の話」で終わらせてはならない、という訓戒を自らに課す意味として、末位ながらも選出させていただいた。


 10本を通観して気づかざるを得ないことは、10本のうち、実に4本が、ポレポレ東中野で上映された映画である事実だ。それほどまでに、この映画館における上映活動は充実していた。

  厳密にいえば映画館ではないのだろうが、東京芸術センターのシネマブルースタジオにおける上映も忘れがたい。『ガス燈』によって、イングリッド・バーグマンを再発見できただけでなく、秋からのフランソワ・トリュフォー連続上映は、今回3度目に見る『大人は判ってくれない』、2度目の『終電車』をベスト100へと送り込む幸福な結果をもたらしてくれた。

  早稲田松竹には、『丹下左膳餘話 百萬両の壺』の上映を感謝してやまない。記録的な暑さの中、3日にわたってこの映画を見続けることができたのは、この夏、最も喜ばしい出来事のひとつとなった。

  そして、タイにおける映画も、大きな影響を与えられた要素のひとつである。日本でもタイ映画を見る機会は増えたものの、日本に輸入されるタイ映画は、あくまでも日本人の感性に合い、日本における興行成績が見込める内容である。しかし、タイ本国で見るタイ映画は、日本人の価値観と大きくかけ離れたものが多く、それらを見続けることによって、国際的視野などといった狭量な領域ではない、映画の遥かなる地平というものを、改めて考え直させられるようになったことを無視するわけにはいかない。

 

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